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月夜の出逢い

 その男、若い侍は、罪を犯し逃亡していた。
 逃げて、逃げて……、この林に辿り着いた時には、空腹と一滴の水も飲めずで、意識が朦朧としていた。
 ようやく見つけた池の水を飲もうとして、侍は池に映った自分の姿を見て、驚愕した。
「なんだこれは? 私は侍、人間だ!」
 なんと、池には侍ではなく、兎の姿が映っていたのだ。
 なぜこんな姿に、なってしまったのだろう。
 しかし、自分は遊女殺しの罪を犯した逃亡中の身、これはその報いか!
 明るい大きな月を見上げ、兎となってしまった侍は、どうせならあの月まで逃れたい、そう思った。そして、逃げるのに疲れ果て、林の中で死んだように眠りについた。
 
 どの位の時間〈とき〉が経ったのだろう。
 兎が葉擦れの音で目を覚ますと、目の前に、白く細い傷だらけの足があった。目を上に移すと、髪は乱れ顔の白粉はまだらになっていたが、それでも女は美しかった。薄い体の肩が震えていた。木末〈こぬれ〉のような手には、しっかりと何かの箱を持っている。
 兎は逃げもせず、耳を立てて女を見つめた。
「今晩は、兎さん。なぜこんな所にいるの? 私と同じで逃げてきたの? 私はね……」
 女は兎を抱きかかえ、身の上話を語った。
「父上と弟と妹がいるのだけど、借金のかたに女郎屋に売られて」と悲しく言う。「今いる場所から逃げたい」と声を殺して泣いた。
――なんということか。自分は遊女を殺して逃げているというのに、出会った女もまた遊女。それにこの女、もしや武家の娘では?
 兎の姿になっても、心はまだ侍のままの男が、そこにいた。
 
 女は、手に持っていた箱を、兎に見せた。
「硯箱よ。何を言われても、これだけは手放さなかったわ。これは母上の形見だから」
 漆塗りの立派な硯箱だった。その蓋裏には、笹と可憐な紫苑の螺鈿細工が施されていた。
「兎さんになら、何でも話せて落ち着くわ」
 その時、数人の男の声がした。
「ああ、やっぱり連れ戻される。私の生きていく場所は結局、遊郭にしかないんだわ」
 それを聞いた兎は決心した。自らをこの硯箱の目立たない蓋裏に、留め置こうと。
 このまま兎の姿で生きていく自信は、自分には無い。それなら、この女の一時〈ひととき〉の慰めにでもなれる方がいい。
 そんな兎を、月は静かに照らし続けた。
 
 数年後、女は遊女のまま二十二で尽きた。
 兎は、蓋裏から女を看取り、それからの長い長い年月を、たった一羽で過ごしている。
 あの月夜の晩に、たおやかな女と出逢えた幸せを、かみしめるように思い出しながら

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作成 2023.03


テーマ 一羽の兎を主人公に、フィクションを創る。
[設定条件]
・一羽の兎とは「豆兎蒔絵螺鈿硯箱」の蓋裏の兎のこと。
・兎は元々生きていたが、何らかの理由があってこの蓋裏に留められることになったこと。

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