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パスポート

 私の右足には、もう薄くなっているが、幾つかの傷跡がある。それは、幼いながらに頑張っていた自分を、思い出させてくれる、大切なものだ。
 
 私が6歳だった1972年は、札幌オリンピックや、あさま山荘事件など、大きな出来事が続いた年である。けれども当時の私は、そんなことはつゆ知らず、自分の生活のリズムを守るのに、必死になっていた。
 私は生まれつき、右半身が麻痺しているので、この頃から毎朝、京都市内にある聖ヨゼフ整肢園に、リハビリに通っていた。通院手段は、90ccのホンダ・カブ、運転手は父である。
 まず、左足を支点にして、右足を振り上げ、カブに跨る。ヘルメットを被り、準備完了。ただここで失敗すると、厄介なことになる。頼みの左足の、力の入れ具合が悪いと、右足のバランスが崩れ、カブの右側にある、マフラーに触ってしまうのだ。火傷である。
 その時は金属の、堅くて冷たい圧覚があり、次の瞬間、ジュン、と音がして、急にボワッとした熱さが広がる。(あぁ、不覚)
 皮膚感覚の弱い右足は、一つの火傷が治り切らないうちに、また次の火傷を作ってしまう。いつもアロエを湿布し、包帯をしていた。ジュルジュルとした皮膚は、やがてキチキチと吊れて、痛痒くなる。
 その右足を引きずっての、リハビリも辛かったが、それまで家の中だけで、のんびりと暮らしてきた私にとって、幼稚園生活は、とてもきついものだった。
 朝早くにリハビリに行き、一旦、家に戻って制服に着替える。スクールバスで幼稚園に着くと、あくびまじりに眠気が押し寄せる。お遊戯、ボール遊び、工作などの苦手なことが多いうえに、園長先生が剣道の有段者ということもあって、朝の日課が、竹刀を振ることだった。(あぁ、面倒臭)
 毎日、目一杯の状態で、家に帰ると精神的にも肉体的にも、へとへとだった。それでも休まなかったのは、両親に心配をかけたくない、その一心からだったと思う。
 
 44歳の今も残る火傷の跡。それは、あのカブのマフラーの、痛みを伴う熱さを、鮮明によみがえらせて、当時の自分に「ありがとう」と伝えることのできる、パスポートなのかもしれない。あの頃の頑張りがあったからこそ、学生時代、社会人になってからの難題も乗り越えられたのだと思う。
 これからも自分なりに歩んでいこう。そして、最期まで頑張れたなら、6歳の自分にきっと褒めてもらえるような気がするのだ。

-FIN-

 作成 2010.07


テーマ 触覚(忘れられない触感)をテーマにエッセイを書く。

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