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幸せの味、青春の味

 もう何十年になるだろうか。私には今も心に残る“味”がある。それは亡くなった母の味でもなければ、高級レストランの味でもない。あの日、偶然見つけた路地裏の、小さな喫茶店の味である。
 
 1983年(昭和58年)、私が高校2年生の秋、文化祭の時のことだった。
 普通なら昼食は、友人たちとお弁当を囲むところなのだが、その日は私が外食する条件が揃ってしまう。
1.友人たちとは誰ひとりとも時間が合わず、私ひとりで昼食をとることになったこと。
2.母が忙しくて、お昼代として500円を渡されていたこと。
3.眩しいばかりの晴天で、思わず校外に出掛けたくなったこと。
(方向音痴の私が外へ出て、学校に戻って来られるかな?)
 私は、今も昔も超ド級の方向音痴で、慎重の上に慎重を期してもまだ、道に迷う。それでもその日は「外食しよう」と決意し、校門を出て、大通りから路地へと歩みを進めた。
 
 しばらくして、そこに〈喫茶ラグタイム〉はひっそりと建っていた。初めて見る喫茶店。
 カララン、コロロン、どきどき。
 ひとりで喫茶店に入るのはこの日が初めて。
 メニューに、エビピラフとコーンスープのセットが600円とある。お昼代におこづかいの100円を足せば大丈夫。これにしよう。
 私は店員さんに注文すると、ふぅ、と一息ついた。ちょっと緊張してる? それを和らげようと、店内の様子を眺めた。
 今は喫茶店の中に居ても、携帯電話を離せない人が多くいるが、当時は本を読んでいたり、おしゃべりしていたりと、傍から見ても素敵な光景だった。
 5分程待って、ついに来た、エビピラフとコーンスープ。ピラフはつやつやしていて、スープはとろっとしていた。
 一口ピラフを食べた瞬間、(美味しい!)
 一口スープを飲んだ瞬間、(甘い!)
 高校生が600円の昼食なんて、贅沢だと思ったけれど、すごく得した気分になった。そして幸せな気持ちで、店を後にした。
 
 考えてみれば、あれから40年近く経つ。
 あの秋の日、偶然に出会えた味に、とても懐かしさを感じる。幸運だったとも思う。
〈喫茶ラグタイム〉は、今はもう無い。けれど、味を思い出したい時は、味覚をフル回転させて、味を描けばいい。
 ひとりで初めて喫茶店に入る緊張感という、甘酸っぱい青春の1ページを綴ってくれた味。
 たった一度食べた記憶だけで、心に深く刻まれた味。
 それが〈喫茶ラグタイム〉のエビピラフとコーンスープなのである。

-完-

 作成 2021.04


“もう一度○○したい△△”をテーマにエッセイを書く。

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