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黄色いつむじ風

 今から十年前の2002年、私は暗闇の中にいた。両親は「明けない夜はない」というけれど、渦中の、今より人生経験の浅い、当時36歳だった私は、素直になれなかった。
 その頃はいつも、喉の奥に石のような塊がひっかかっている感じで、何も言えない日々を過ごした。
 大学受験に失敗し、高卒で図らずも公務員として働くことになった私。
 けれど一般常識と、その常識が通じない公務員の既得権意識との狭間で、だんだんと心がすさんでいくのが恐かった。そして退職の挙げ句、精神科を受診。〈うつ〉の診断を下されて、二週間に一度のカウンセリングを、受けることになった。
(この先、何年通院するのだろう。私がうつだなんて。医者が何を言っても、私には届かない。だって、私が悪いんじゃないもの)
 頑なな私の心は、周囲の心配をよそに、固く閉じてしまっていた。
 落ち込んだままでの精神科への通院。私は気を紛らわせたくて、帰りによく、ペットショップに立ち寄った。お気に入りは、セキセイインコの場所。見ているだけで、思わず頬がゆるむ。
 その日、10月の下旬に見に行くと、六羽の雛がいた。ガラスケース越しに覗くと、眠そうに六羽が寄り添っている。トントンとケースを叩くと、一番奥にいた雛が私に気づき、ちょこちょこちょこと、小さな足で前に来て、お尻を振り振り、ダンスを始めた。
 私は一目でそのコが好きになり、家へ連れて帰ることにした。今から思えば、運命だったのだと思う。ふわふわとした羽毛は、もうしっかり黄色で、丸くて黒いつぶらな瞳は、小さな宝石のようにキラキラしていた。
「栗……くり、玖璃! 今日から君は玖璃!」
 鳥かごに藁で編んだ巣を入れ、その中に玖璃を乗せる。これからこのコと一緒なんだ、と思うと、それまでのつらくて虚しい、うつの症状も和らいでくれるように思った。
 玖璃は本当に甘えん坊だったけれど、賢くもあった。鳥かごに入っているのが嫌で、一日中、私の肩に留まるようになった。
 テレビ体操で、私が体を動かしていると、ピアノの音に合わせて、ピルルルルと一緒に歌う。果物が大好きで、絶えず私にせがむ。特に苺が好物で、つぶつぶのところだけを食べ、嘴のまわりを真っ赤にして、ご満悦。その時の嬉しそうな顔は、今でも忘れられない。
 それから玖璃は、かくれんぼが大好きだった。でも、隠れる場所がいつも同じなので、かくれんぼにはならなかった。必ずタンスと壁の隙間に入り、もぞもぞしていた。
「玖璃! 明日、かごから出さないよっ!」
 私がそう言うと、ピイッ、と得意げに顔を出す。そうかと思うと、タンスの上から、私がかけているメガネのふちを目掛けて、ひゅーん、と急降下。小さくても鳥なんだな、と改めて思う瞬間だった。
 
 やんちゃで憎めない性格の玖璃。私の一日は、以前のように自分ではなく、玖璃のことを中心に考えるようになった。
 けれどその頃の私は、うつの症状がひどく、外へ出掛けることは勿論、自分の部屋からも、なかなか出られなかった。しんどい時には、家族へのやつあたりが激しくなり、癇癪を起こすと、手当たり次第に物を投げつけた。
 そんな状態の中での、玖璃との生活。
 けれども玖璃は、自分しか見えていない私を、肯定も否定もせず、ただ〝楽しくて穏やかな時間〟をくれるのだった。
 玖璃といる時だけは、心が落ち着くことができたのが、私の救いだった。
 玖璃が来てから、三年が過ぎた12月のある日、私は、些細なことで父と喧嘩をした。
 ところ構わず当たり散らす私を、父はうつとは認めず、いつも頭ごなしに殴っていた。
 その日は、客人用の重いガラスの灰皿で、私の後頭部を殴りつけた。じんわりと滲む血。それでも私は、意地でも涙は見せなかった。
 ズキズキする頭を冷やしながら、ベッドで寝ていると、いつの間にか玖璃が枕元に来ていて、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。私がそれに気づくと、玖璃は小首を傾げて、その場を歩き回った。
「いいよ、玖璃。心配しなくて、いいよ」
 そう言うと、玖璃はピ、と小さく鳴いて、私の横にいてくれた。
(ありがとう、玖璃。私は父親には理解してもらえないけれど、玖璃がいる。今、一番私の気持ちを分かってくれるのは、玖璃なんだ)
 そんな私の思いを、知ってか知らずか、玖璃はいつものようにマイペース。
 この時私は、幸せな時間がずっと続くものだと、信じて疑わなかった。
 しかし、年が明けて半年、玖璃に僅かな異変があった。
 冬でもないのに、ポットの上から降りようとしないのだ。それに何だかおとなしくなったみたいだと思った。何故? 私は不安になって、玖璃を温かくした鳥かごに入れることにした。
 あれほど元気だった玖璃が、一日一日ひっそりとしていく。私はどうしていいか分からず、右往左往するしかなかった。
「玖璃、大丈夫? 何もできなくてごめん。元気出すのもしんどいよね」
 私の言葉に、か細い声でピィ、と鳴く玖璃。それだけで胸が詰まる。
「うん。私も頑張るからね」
 一週間後、玖璃は弱っている羽をばたつかせて、外に出たい、との身振りをした。
 好きにさせてあげよう、そう考えた私は、玖璃を自由な空間へと解き放った。
 すると玖璃は、私の部屋をぐるりと一周して、私の手の上に留まり、最後の力を振り絞って、ピイッ、と鳴いた。
 
(そうか、お別れなんだね)
 私は玖璃をそっと掴むと、
「いいよ、玖璃。もう分かったから」
 と頷いた。そして玖璃は、一粒の涙を流して、その命を終えた。
 次第に固く冷たくなっていくその身。玖璃が天国に羽ばたいて逝ったことを、私はこの手の中で見届けた。
 今の今まで生きていた玖璃は、もう動かない、ということが信じられず、そこにあるのは空白感だけだった。
 しばらくして落ち着いてくると、これからの玖璃のいない生活を、考えるようになった。
 やり切れない思いや、寂しさが込み上げてくることには蓋をせず、心を解放することにした。涙を流して、じっくりと玖璃と過ごした日々を辿っていく。浄化作用とでもいうのか、玖璃との思い出は、悲しみの中にも充足感を味わえる。
 玖璃との出会いは、その頃の私にとって、奇跡のような出来事だった。家族の皆には、うつである私が迷惑だろうけど、玖璃は私の存在を認めてくれた。こんな私を頼ってくれた。そして私も、それに応えようと頑張った。
 玖璃がいた三年と九ヶ月、私は他者を思いやる心を持ち、自分より弱い者を守ることの大切さを学んだ。
 胸の奥がきゅんとなるその思い出は、感謝の気持ちで一杯にしてくれる。今でも嬉しいこと、楽しいことがあると、真っ先に玖璃に報告する。すると私には、玖璃のピイッ、という鳴き声が聞こえてくる。
 玖璃は今もどこかで、私を見守ってくれている、そう感じられるので、玖璃のあとには、ペットは飼わないつもりだ。
 それでも近頃、私の心の一番広い場所に住んでいた玖璃が、時々そこから飛んでいって、なかなか帰らないことがある。そういえば玖璃は、自由な空間が好きだった。もう私の心に閉じ込めておくのはよそう。自由自在に飛び回る玖璃を、想像していたいから。
 そんな玖璃に、今、伝えたい言葉がある。
——玖璃。君には、本当に感謝しているよ。いつも億劫な気持ちでいた私にとって、君の存在は、それを吹き飛ばす黄色いつむじ風だった。君といる時は、辛いことも悲しいことも考えずに済んだ。何でも頑張ってみよう、と思うこともできた。
玖璃、君はもういないけど、君と過ごした幸せな日々を忘れずに、私は、明るく前に向かって歩んでいく。君ともう一度会えた時、胸を張って笑えるように。
 それから、今はお父ちゃんとも仲良うやってるよ。安心してな。
 ほんまにありがとう、玖璃。また会おな!

-FIN-

 作成 2012.2~2012.4


テーマ 「置き言葉」をテーマに3回で起承転結の一本のエッセイを書く。
※「置き言葉」…長らく過ごした場所から出ていく、大事なものを手元から離す、そんな時に残す言葉・伝えたい言葉。

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