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白の追憶

 ときは一九二〇年(大正九年)、ここ北の大陸の国境近く、その雪原を通って来る列車を、鷲尾啓介(わしおけいすけ)は今、ひたすらに待ち続けている。
 列車には、お互いを想いながらも、別れなければならなかった女性、イリーナが乗っているはずだ。啓介は、この息が詰まるような時間の中で、遠き日のイリーナとの出逢いを思い出していた。
 
 二十年前、二十歳だった啓介は、子爵・中条(なかじょう)家で働いていた。ある日、外国人の一家が中条家にやって来る。政府の役人である夫のカシン氏、教師の妻、十五歳になる一人娘のイリーナだった。イリーナは青い瞳に、金髪のおさげをリボンで結わえ、その透き通った頬に、はにかみながら笑みを浮かべた。
「コンニチハ。ヨロシクオネガイシマス」
 彼女のたどたどしい日本語と姿かたちに、啓介は好感を持った。それからは彼女に何かと気配りをし、相談にも乗り、まるで兄妹のように過ごした。
 月日は流れ、イリーナは美しい女性へと変貌し、啓介は、言いようのない胸の高鳴りに、戸惑いを隠せないでいた。
 
 その年一九〇四年二月、日本は日露戦争を開始。啓介も近々召集されるだろうという折も折、中条家の当主が、イリーナを妾の一人にする、と言い出したのである。
 イリーナは啓介に懇願した。
「ワタシヲ。ツレテ、ニゲテ……」
 啓介は悩んだ。逃げて捕まれば、中条家にどんな仕打ちをされるか分からない。それでも啓介は、イリーナを守りたかった。恋の逃避行、二人は行く宛のない旅に出る。
 季節は冬、安宿の窓から見える雪景色、凍てつくような寒さの中で、二人は心を震わせ、お互いの肌の温もりを感じていた。
 しかし三日後、やはり二人は捕まってしまう。イリーナは中条家に連れ戻され、彼女の両親は祖国へ強制送還、啓介は戦場の最前線に送られることになった。
「僕は必ず生きて戻る。それまで元気でいてほしい。君のことをいつも想っている」
 という啓介の言葉に、イリーナは涙した。
 
 だが、その約束を果たせぬまま、今日の日を迎えてしまった。近づいて来る列車を万感の思いで見つめる啓介。しかし、駅を降り立つ人の中に、イリーナの姿はなかった。
 落ち込む啓介の前に、見知らぬ声が掛かる。
「あの……。鷲尾啓介さんですか? 初めまして、私、イリーナ=カシンの娘の中条倫子(なかじょうのりこ)です」
 啓介は突然のことに、頭の中が一杯になり、胸の奥が空っぽとなった。
(イリーナの娘? しかも『中条』ということは、あの中条家の当主との子供なのか?)
 立ち尽くす啓介に、倫子が言う。
 イリーナは二年前、倫子に父親の名を明かすと、微笑みをたたえ、静かに息を引き取ったこと。倫子はイリーナと啓介の娘で、中条家の養女として育てられたこと。倫子は実の父に会いたくて、北の国にいる啓介に、イリーナの名で手紙を書いたのだ。
「そうか……。さぁ、もっとイリーナの話をしてくれないか。君自身の話もね」
 啓介は、倫子を促すと、二人して駅を後にし、白い街へと消えていった。

-FIN-

作成 2016.04


テーマ 登場人物の苗字決定済(男;鷲尾。女;中条)の条件でフィクションを創る。

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